正門良規が生んだ染み(染、色考察)

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桜(ソメイヨシノ)が10月に咲いたりといったーー花が季節外れの時期に開花するーー現象を、「狂い咲き」と言うらしい。


舞台「染、色」
(脚本:加藤シゲアキ・演出:瀬戸山美咲・主演:正門良規)

自担の演技を目当てに観劇した。
今から考察を書いていきたいと思うが、初めに言っておきたい。

「これはただの自己満である」と。

自分の中でも考えがまとまっていないし矛盾だらけだが、それでもこんな記事を書いているのは、せっかく無い頭を働かせて生み出した考察を発表したいという、いま流行りの承認欲求からである。
解釈に正解や不正解はないし、脚本家もあまり覚えてないらしいということを前提としてほしい。
なおこの口調は「なんとなく文学解説っぽく書こうかな!」という軽いノリである。
タイトルはとりあえず名前を入れるかつ簡潔に纏めたかったからこうなっただけで、適切な表現をするならば「正門良規(主演の舞台染、色)が(私の人生に)生んだ染み」となる。

さて本題へ入ろう。
様々な考え方がある中、私は冒頭に書いた「狂い咲き」という言葉を主軸として、考察をしていきたいと思う。

物語序盤で、主人公:深馬(みうま)〈正門良規〉の友人である北見〈松島庄汰〉が、去年の10月に帰省した際、何故かソメイヨシノが咲いていた、という話をする。
深馬は10月に咲いた桜が次の春にも咲くのか、ということが気になるようだったが、北見はそこに興味はなく、ただ祖母が春にも「こげぇ綺麗な桜を見たのは初めてじゃッ!」と言っていたと、大袈裟なモノマネをして伝える。その桜が同じ木なのかは不明。
(ツッコミ待ちだったが深馬がつっこんでくれずもどかしくなっていた北見が可愛かった)
この話は別のシーンでも出てくる。北見と、同じく深馬の友人の原田〈小日向星一〉と、彼女の杏奈〈黒崎レイナ〉が3人で話すシーンだ。桜が秋に咲いたという話をし、原田が「それって……」と言ったところで場が転換する。
続きの言葉が気になるが、完全に伏線の顔をしているし後で分かるだろう。……そう思っていたが、続きの言葉は結局最後まで分からなかった。
観劇してしばらく経った後に無性に気になり、【秋 ソメイヨシノ 咲く】で検索した。すると、○○で10月にソメイヨシノ開花! といったニュース記事が複数と、その事象についての解説のようなページが出てきた。
花が季節外れの時期に開花する現象を、「狂い咲き」と言うらしい。比喩的に、「盛りを過ぎたものが、ある時期だけ勢いを盛り返すこと」という意味もある。

深馬が大学講師の滝川〈岡田義徳〉に、絵について相談するシーンがある。
自分の絵が納得のいくように完成せず、「何かが枯れてしまったようなんです」とすがる深馬に対し、滝川は「その若さで枯れることはない」と諭す。
なおこの時、滝川は深馬の顔ではなく、下半身を見て言っている。笑うポイントだったのかもしれない。(東京公演の配信ではそうではなかったため、途中からそう変えたのだろうか)
とにかく深馬はその時点で、自分は絵に対する衝動が枯れてしまっていている、と思っていた。
この「枯れる」という言葉が「桜が咲く」ということに相対しているとしたら。

深馬が狂い咲きする、というひとつのテーマが見えてくる。

劇中にあったように、深馬は3年生のときの展覧会までは生き生きとしていた。しかしその展覧会で気持ちが落ち込んでからは、あまり遊ばなくなった。北見は「深馬は自分の限界に気付いてしまった」のだと杏奈に説明し、原田も共感している。
「枯れる」という比喩がそのことも含むとすれば、「狂い咲き」は”絵に対する衝動が(一時的に)復活し、際限なく絵を描くこと”という意味ととれる。
そして物語は、そういう展開に向かっていく。

その要因となったのが、麻未(まみ)〈三浦透子〉の存在である。
深馬の未完成な絵を完成させる麻未。深馬の心理をつき、意気投合し、一緒にグラフィティアートを描いてまわる。
深馬は杏奈という健気な彼女がいるにも関わらず麻未と絵を描き、体を重ね、秘密の関係を続けた。最低だ。
しかし深馬が咲き誇るには、無くてはならない存在だった。


話は変わるが、この舞台は原作小説とは殆ど別物だ。
主人公や腕にカラースプレーを振る女の名前も、周りの登場人物も違う。なぜか杏奈だけは杏奈だが。
ただ大まかな流れとしては同じで、

現状に満足のいっていない美大生(彼女持ち)が、腕にカラースプレーを吹き付け壁に絵を描く女に出会う。互いに惹かれ合い、一緒に街の壁に絵を描き、体を重ねるという生活を続ける。ふとしたきっかけで会うことをやめるが、またふとしたきっかけで主人公は女に会いたくなる。しかし女は既に消えており、女のいない部屋で自分を慰めるが、最後には彼女の杏奈に電話をかける。

共通点を凝縮するとこうなる。
だが小説には友人の名前も講師も、桜の話や絵についての悩みも出てこない。どちらかというとラブストーリーだ。
一番相違している点はやはり、スプレーの女の設定だろう。
小説では女:美優は、主人公:市村と同じ美大に通う大学生だ。卒業後の進路などについても書かれている。
しかし戯曲では、麻未は大学生でもなければ将来も描かれていない。そもそも本当に存在していたのかが曖昧にされている。そしてこの舞台の最大の論点はそこだ。

ストーリーをそのまま落とし込むと、麻未は【深馬の身体の中にいる別人格】と受け取れる。名前も「みうま」と「まみ」で、麻未が「ま行だらけだね」と言って名前を強調していたのも、観客に名前の意味を考えさせるためだろう。母音を抜けば逆さ言葉だ。
物語の終盤、卒業式後の打ち上げで麻未=深馬だったと明かされる。実際には麻未なんて人物はいないし、ポリダクトリーは他の人の作品だし、滝川は嫉妬に駆られて変な行動を起こしていなかった。原田が滝川を好きだったということも深馬は知らないはずだった。
(原田の態度や反応から、滝川に尊敬以上の好意を抱いていたと推測できる)
その場合どこまでが正常で、どこからおかしくなったのかーーそれは最初の場面で、絵が倒れて油絵の絵の具が深馬の腕に付いたときだろうと思う。偶然に腕が染まったことで「腕を染めて絵を描く女」の人格が生まれ、自分では気付かない深層心理を表現した、ということになるのだろう。

逆に、【麻未は実在する】という説も考えられる。
麻未は実在し、ポリダクトリーは深馬と麻未の合作。その作品を自分が描いたことにしようとする滝川と協力する原田。深馬視点の全てが真実だったとする。
そう考えられる描写はいくつかある。
・深馬の襟足に付いたスプレーの塗料
・肩車された麻未が吹き付けたスプレーが、部屋の壁の手が届かない場所に残っている
・ポリダクトリーが一人なら、タギングをわざわざ6本指にする経緯と理由が考えづらい
今思いついたのがこれくらいだ。
なお麻未のバックボーンが具体的すぎるという点に関しては、そのことが深馬以外の第三者に知られたり、何か記録等に残っているわけではないので根拠とはしない。
麻未実在説の場合、打ち上げのときの会話に矛盾が生じるため、深馬以外が記憶を変えられたという壮大な出来事になってしまうところが難しい。

麻未という人間は実在するのか、それとも深馬の中の人格なのか。

ーー私は、その中間だと考えている。
つまり【麻未は実在しているが、深馬の幻想だった場面もある】ということだ。

注目したのは”服装”である。
杏奈が就活の面接を受けているとき(観客から見ると)その目の前で深馬と麻未がセックスをしているというエグいシーンがあるが、そこまでの深馬は白いTシャツに白のシャツを羽織り、白のパンツを履いている。
しかしその次のシーン。大切に描いていた絵が壊されているのを発見するシーンから、黒のシャツ、黒のパンツに変わっている。
反対に麻未は初めから黒づくめだった。つまり二人は体を交えることで心まで混ざり合い、深馬は麻未に染められたのだ。この時から深馬の中に幻想の麻未が現れ、対話に見せかけた自問自答をしてゆく。
君は何にだってなれるんだよーーそれは”ちゃんとした不幸と、ちゃんとした自由”のない深馬が、一番求めていた言葉だった。

次に深馬の衣装が変わるのは病院のシーンで、グレーのパーカーになっている。そこでの北見や原田との会話には矛盾はなく、これまでの深馬の体験とリンクしている。ただこの会話も、夢と現の狭間で見た幻想だったのだろう。
病院のシーンが終わるとパーカーを脱ぎ、深馬のモノローグを経て白のシャツに戻る(パンツは黒のまま)。そして来るのは卒業式の打ち上げシーン。

白に戻った深馬は、麻未なんて女が実在しなかったことを知らされ混乱する。そこから、今までの出来事が麻未=深馬のバージョンで再現されるが、何故か杏奈らの台詞が少し違う。つまりこの再現も、深馬が辻褄合わせに造り出した妄想に過ぎないのだ。と私は考えている。

深馬は、麻未が存在した証明(一人では手の届かない場所に付いているスプレー)が残る、麻未の部屋に行く。そこでやはり麻未がもういないことを思い知らされ、泣きながら自分を慰める。
男性において初めてのマスターベーションは、一種の通過儀礼のようなものだ。それと同じことをこの状況で行うことで、またひとつ”それまでの自分”と区切ることができるのだと思う。
そして杏奈と一緒にいることをを選ぶことで、麻未との思い出は完全に過去のものとなる。
とまぁそれらしく言ってみたがここは正直、なんとなくである。

最後に麻未は、白いワンピースを来て舞台に現れる。ここで強調したいのはやはり、服の色である。これまでずっと黒を纏っていた麻未が、最後の最後で白くなるのだ。
それは、深馬の中の麻未が浄化された(消えた)ということを意味するのだろう。しかし麻未視点でいうと「深馬に染められた」と捉えることはできないだろうか。


ここでテーマを戻そう。
最後に出てくる白いワンピースの麻未。
その上では花びらが散っていた。春の桜である。
夏の前から秋にかけて狂い咲きした深馬は、春にもまた麻未の元で咲き、散ったのだ。

深馬にとって麻未は嵐のような存在だったが、麻未にとっての深馬もまた、周りの環境に左右され季節外れに狂い咲く、変な桜のような存在だったのだろう。
二人は互いに影響しあい、相手に染みを残したのだ。


ーーと、まとまってはいないが、以上を考察のまとめとさせていただく。

深馬、麻未、北見、原田、杏奈、滝川。全ての登場人物に人生がある物語だった。語彙力が乏しくて申し訳ないが、「すごい」の一言に尽きる。

一度付いた染みは消えることはない。

舞台「染、色」は、私の人生にとっても間違いなく、消えることのない染みとなったのだった。


P.S.
登場人物一人一人を掘り下げてもっと考察を書きたかったが、それは他の方の考察で補おうと思う。

ひとつ書こうか迷った考察がある。それは「この物語すべてが、原田の作ったドキュメンタリーだった」という、クレヨンしんちゃんの都市伝説みたいな解釈だ。
思いついて2秒でボツにした。#染色


2022.2.23 追記
こちらから戯曲が読めるみたいです(2022.3.1まで)↓
読んでみる!『加藤シゲアキ『染、色』WEB公開』 https://www.yondemill.jp/contents/51545